ホームホスピス もくれんの家

2024.03.04

鹿児島県日置市伊集院町。自然に囲まれたのどかな風景の広がるこのまちに<ホームホスピス「もくれんの家」>はあります。地元を離れて“家”を立ち上げた苦労を経て2017年より運営を始めました。看護師でNPO法人ホームホスピス鹿児島「もくれんの家」の理事長を務める河野博美さんは「わたしたちは本当の家族ではありません。“家”を介して、住人さんたちに“ここは第二の家だよね”と思わせていただいている」と話します。人間同士が感情豊かに寄り添い暮らすホームホスピスの、優しさと厳しさを深く伝えていただきました。

お話を伺ったスタッフ

NPO法人ホームホスピス鹿児島「もくれんの家」理事長河野博美さん

地縁のないところでホームホスピスを立ち上げる困難を乗り越えて

河野さんが<ホームホスピス もくれんの家>を立ち上げたきっかけを教えてください。

NPO法人ホームホスピス鹿児島「もくれんの家」 河野博美さん

河野:わたしは30歳から看護学校で学び、その後地元の病院で働いていました。看護師になれば患者さんのために役立てると思っていましたが、死にゆく患者さんたちに何もできない、ということを働きながら痛感しました。それで緩和ケアの認定資格もとりましたが、そもそも患者の最期の生き方が医師の意向で決まっていくことに対する違和感が辛くて仕方なかったんですよね。病院とは、安心安全を遵守して退院まで運ぶという役割で、「歩きたい」という意思があってもリスクがあると歩かせてもらえない、「家に帰りたい」という方々も思うような場所で最期を迎えられないという現場で、一体この患者さんたちはどこに行ったら幸せになれるのだろうか、と考える日々でした。そんな時、友人のケアマネージャーから「ホームホスピスはあなたに合うかもしれない」と教えてもらいました。宮崎の<かあさんの家>で研修をし、わたしが居たいのはこの環境だったんだ!と強く感じたんです。すくにでも地元で始めたかった。それでもできなかったんです。

なぜできなかったのでしょう?

河野:地元では当時、“介護は嫁の役割”という常識がありました。親兄弟を施設に預けること自体が恥、という文化があり、大きな壁になっていました。ただ病院がこの構想を聞いて「この病院でさせてくれないか」という話はいただいたんですよね。非常に悩みました。でも病院の理念とはまったく別の、患者さんとその家族の居場所をつくりたいという思いが曲げられず、結局お断りをしました。

その後病院が調査会社を入れてホームホスピスの運営について試算をしたところ、とてもじゃないけれど収支が合わない、という結果が出たそうです。「あなたも定年まで病院で働いた方がいい」と言われましたが、日本財団の助成に巡り合い、どうにかここを立ち上げることができました。

患者さんへの思いが原動力になって行動に移せたのですね。

河野:患者さんのために自分のできることをしたい、という情熱で動いていると思っていましたが、後から気づいたのは「これはわたしの心を楽にするためだったんだ」ということでした。病院や施設には、それぞれの役割があります。でも、わたしはそうした場で働くのが辛かったのです。住人さんたちの居場所、イコール、わたしの居場所でもあったのです。

ホームホスピスを始めてからは、どんなご苦労がありましたか?

河野:医療関係者やケアマネージャーとの信頼関係が築かれている地元で始めればよかったのですが、わたしの地元ではない伊集院に「この家しかない」と思った家が借りられたのをきっかけに立ち上げたため、当初は周囲に援軍がおらず大変でした。

そのため、伊集院でエンゼルケアと終末期の看護の勉強会を立ち上げ、仲間づくりを行いました。やはり、現場でのジレンマを抱えながら仕事をしている仲間がたくさんいることに、改めてホームホスピスの意義を感じました。そしてのちにこの勉強会の仲間たちの力を借りながら経営の立て直しを図ることができました。

お金の工面でも苦労しました。財団の助成は助かったのだけれど、拠点づくりの時に女性がトップだったことで足元を見られ、建築費が大幅にオーバーしました。また経営が成り立つように訪問看護ステーションとヘルパーステーションを並行して始めたところ、地縁がないことと病院との連携がなかったことでなかなか仕事がもらえず赤字が膨らみ、訪問看護ステーションを休止しました。この2つの負債と立ち上げ時の自己資金を合わせ、膨大の借金を背負ってしまいました。

ホームホスピスの先駆け期ならではのご苦労もおありでしたか?

河野:当時は「ホスピス」と名のつくところで働きたいという人がいませんでした。今でこそ看取りを経験してきたヘルパーさんは多くなりましたが、その頃は亡くなった方を見たことがないというヘルパーさんばかりでしたからね。地域の勉強会を何度も開催して「ホームホスピスってこんなところだよ」と広めていきました。苦労の多かった立ち上げ期を支えてくれたのは家族や友達、その友達など身のまわりの親密な人達でした。


「ああきれいだね」と表情が変わる5秒があるから仕事ができる

まわりの人達を味方につけられたのは、なぜでしょうか?

河野:わたしの考え方、やってきたことを知ってくれている人々だからです。不得意な事務作業や経理の仕事を補ってくれる存在として娘が加わってくれたのは大きかった。料理が得意な人、裁縫が得意な人、それぞれの得意を生かし仕事にのめり込んでいる人たちとともに運営するようになり、最近やっとひとつの“家”になってきたかんじです。今はスタッフ10名で、入居者6名を見ています。みんな毎日フル回転です。

ひとつ屋根の下に暮らすスタッフは、住人さんと本当の家族のようになりますか?

河野:それでも家族の存在にはまったく敵いません。わたしたちスタッフがいくら手厚くしようとも、家族がただ黙って1分2分その場にいるだけで全然違います。よく“ホームホスピスは第2の家”と言われますが、なれっこない。「本当は娘がいい。でも忙しくしているし、迷惑はかけられない。だからこのスタッフでもいいね」という住人さんの忖度が実はあるわけです。だからむしろ、わたしたちこそ“第2の家みたいだよね”と思わせていただいているのだと思います。そのご厚意にあぐらをかいてはいけないと、いつもスタッフと話しています。

本当の家族ではないからこそつくれる暮らし、とも言えますか?

河野:そうですね。家族ではないから、感情的にならないように努められるんでしょう。わたしたちができることは、何の損得勘定もなくただ住人さんを思うこと。たとえば先ほど、外で竹灯籠を一生懸命つくっているスタッフがいましたよね。いくらその竹灯籠が美しくできても、認知症の人はすぐ忘れるんだからつくって意味あるの?と言われることもあります。でも一瞬、5秒間だけでもそちらを見て「ああきれいだね」と彼らの表情が変わる。その5秒があるからわたしたちはここで働いているのだと思っています。

介護美容の方にネイルをしてもらった98歳の方は、自分の爪を見て「まあ、きれいね」と言い、手を下げたらもう忘れていました。それでいいのです。今まで頑張って生きてきた人たちなのだから、もう、全部忘れてもいいじゃないですか。竹灯籠もネイルも、言ってみればわたしたちの自己満足です。住人さんたちがその瞬間瞬間を楽しいと思えて、自己満足で喜んでいるわたしたちスタッフに囲まれていればいい。そんな風に考えています。


生きて欲しい、という願いと葛藤を携えてひらく「泣ける会」

これまで生活背景も症状も異なる住人さんに対して、どのように接しているのでしょうか?

河野:それぞれの人生の物語があって要求も違いますから、一人一人にできるだけ合わせています。毎週家族が食事を食べさせに来るという方もいれば、日々の細かいデータを報告することでようやく安心する家族を持つ方もいれば、毎日お酒を飲むことを日課とする方もいます。

病院だったら飲ませていないでしょうね。でも毎日ビール3本、その後焼酎を1時間半かけて飲むのが生きがいの人もいるのです。彼は会社を定年退職してようやく妻と世界旅行に行けると楽しみにしていた矢先、自分の壮行会でつまずいて頭から転び、脊椎損傷しました。嚥下機能が戻らないのですが、ご本人、ご家族、主治医、ケアマネージャーなど関係者が集まって話し合い、「焼酎とビールを飲んで死ぬなら、それでもいい」というご本人の意思を尊重することにしました。わたしはその方に付き合って、みんなの食事が終わった7時半頃から差しつ差されつつ(わたしは水ですが)一緒に飲んでいます。しかし、やっぱり誤嚥性肺炎で熱が出ます。すると、家族はもちろんわたしたちも動揺してしまうのです。そしてすぐに話し合いを持ち、意志の確認を行うということが都度続いています。

考えや感覚の異なるご本人や家族との調整は大変でしょうか?

河野:はい、1ヶ月に1回3時間ほどかけていろいろな案件を議論しています。ホームホスピスは癒しの場所というイメージでしょうけれど、実際は毎日闘いです。やめるスタッフも多く、始めた当初は3年間に9人やめて行政から指導が入りました。仕事の時間や内容が決まっているわけではなく、一人一人に合わせて臨機応変に対応するというマニュアルのない働き方は難しい、と感じる人もいます。でも損得勘定抜きに住人さんのことを純粋に考えて、住人さんたちの喜ぶ顔にわたしたちも喜んで、一緒に暮らしていけるのはホームホスピスならではの良さだと思っています。

スタッフにとって、ホームホスピスで働く日々とはどんな時間なのでしょうか?

河野:これだけ密に生活しているといろいろありますよ。98歳のおばあちゃんは、最近食べられないんですよね。「食べられなかったら食べられないでいい。点滴もしない、酸素も入れない」という家族の思いはスタッフも共有していますが、頭で分かっていても目の前で食べられない方を見ると胸が痛くなります。スタッフも「一口でも食べて、一日でも長く生き延びてくれたら」と思ってしまう。家族目線になってしまうんです。そんな時は「それは誰にとっての幸せなの?」と話します。自分たちが楽になるようなことをしてはいけない、という戒めです。

それが大変きついので、同じ思いを持つスタッフと“泣ける会”をひらきます。できなかったことは言わず、できたことを言いながら、みんなで泣きます。何年も前に亡くなった方のことを、ふと思い出すこともあります。「これ好きだったよね」などと話すと、また泣けてきます。


その人が生きたようにしか、その人は死ねない

亡くなる方がいるという職場の辛さですね。

河野:家族もスタッフも、亡くなる方に対して気持ちが入り込んでいきます。でも実は、わたしはそんな辛い局面でも、「この方が亡くなったら、次どなたか来て下さるだろうか」と考えています。自分でも嫌なのですが、現実です。ホスピスですから2-3人続けて亡くなることもあり、入居者が3人になってしまうとうちは経営的にはアウトです。5人だとようやく経営が成り立ちます。他の住人さんやスタッフのために、ここを存続しなければならないから必死なのです。

ホームホスピスの利用を考えているご家族にお伝えしたいことはありますか?

河野:自分たちで看取る勇気がない、時間がない、でも家で看取ってあげたいという方たちはホームホスピスをツールとして使っていただければ、わたしたちは場所と人を提供します。ご家族と一緒にその方の暮らしを支えていきましょう。そして家族がいない方もウェルカムです。家族と不仲な方もたくさんおられます。人はいろんなことを懺悔しながら亡くなっていくのですが、その反対側には辛い思いをさせられた家族がいるのだとも考えます。家族と会いたいという住人さんがいたら、いくらでも機会をつくります。写真をお送りしたり、今こんなですよと伝えたり。それで家族が許してあげようと思えば来ますし、それで来なくても「可哀そうに」と思ったらだめだよとスタッフには伝えています。家族には、家族にしか分からない辛さがありますから。

その人が生きたようにしか、その人は死ねない。わたしたちはただ、そばにいるだけです。

今後、どのような場として育てていきたいですか?

河野:わたしには孫が9人いて、2人が障害を持っているんですよね。この2人には、親が先立っても自立できるように働ける場が必要で、ここが彼らの職場になればという思いがあります。今もひとりコミュニケーションと対人関係が苦手で働くことのできなかった青年が常勤のスタッフとして入っているんですよ。起きることが苦手なその人の特性を受け入れて、どうやっても起きない時はスタッフも親も総出で起こすなどの工夫を続けながら、もう3年務まっていますね。周囲のスタッフにも負担をかけるので難しいことも多いですが、将来的には障害のある人達の働ける場にしていきたいです。そのためには一人一人の住人さんを大切にし、地域の医療関係者の皆さんや地域に住む方々に<ホームホスピス もくれんの家>の活動を知っていただけるよう日々努力してまいります。