ホームホスピス もう一つの家ややさん

2024.03.05

石川県小松市の<ホームホスピス もうひとつの家ややさん>は、2022年から始動しています。長年地域を耕し続け、多くの福祉事業を手掛けてきたNPO法人ホームホスピスこまつの理事長・榊原千秋さんから、ホームホスピスという場づくりに至るプロセスを丁寧に伺いました。身体と精神の健やかさを保つために欠かせないコンチネンス(排尿や排便が正常に行われていること)についての研究を重ね、認知症の方々と「人として出会う」ことを大事にしてきた榊原さんならではの場づくりが見えてきます。

お話を伺ったスタッフ

NPO法人ホームホスピスこまつの理事長榊原千秋さん

大怪我により失われた自己肯定感を取り戻す

榊原さんは<ホームホスピス もうひとつの家ややさん>を立ち上げる前にどんな活動をしておられたのですか?

NPO法人ホームホスピスこまつの理事長 榊原千秋さん

榊原:小学2年の時に弟が生まれ、赤ちゃん訪問に来た保健師さんがとても素敵で「まちの保健師さんになりたい」と思ったのがわたしの最初の夢です。それを叶えて地元愛媛のまちの保健師さんになり、結婚後は夫の実家のある小松市に移住して社会福祉法人松寿園で保健師として働いていました。世の中に訪問看護や地域包括ケアがない時代でしたが、理事長の先見の明があり、その両方を合わせたような活動をさせていただきました。

その頃、利用者さんの家に訪問すると、夜間の排泄でお布団がズクズクになっている方がたくさんいらっしゃいました。「ここに重要な問題があるのでは」と思っていたところ、日本コンチネンス協会の研修会に参加し、目から鱗が落ちました。そもそも尿や便が乱れるのは明確な原因があり、それを解明すれば対処できることを知ったのです。この取り組みを広げたいと学びはじめ、日本コンチネンス協会の北陸支部を立ち上げました。

社会に必要なものを広める動きをつくられるのが素早いですね。

榊原:ただ、そのまま動き続けられなくなる出来事が起こりました。在宅介護支援センターが設立してからは保健師として地域に関わっていたのですが、33歳の時に凍結した路面を車で走行中、4トントラックと衝突してしまって。小さなこどもが3人いる中での出来事です。当時の職場は退職し、長い入院とリハビリを経て何とか歩ける身体に戻りました。

そんな大怪我をしたら、暮らしや仕事も変わらざるを得なかったのではないでしょうか?

榊原:何より辛かったのは、自己肯定感が地に堕ちたことです。怪我で身体がままならなくなると“大いなるもの”から「あなたはもういいわ」と言われているように感じます。わたしはもう生きていなくてもいいのかな、と。そんな日々を送っている頃、市の保健師さんから紹介されたALS患者さんと、ボランティアとして出会いました。ちょうどわたしの身体感覚が研ぎ澄まされていた時期で、わたしはなにか彼と通じ合うような気がしました。

彼に「やりたいことは何ですか」と問うと、ひとつめは「奥さんを能登半島一周旅行に連れていきたい」と。わたしは20代の頃、寝たきりや車椅子の方々との温泉ツアーなどを企画する「石川元気がでるケア研究会」で活動していましたので、その経験を生かして旅行の手助けをしました。もうひとつは「ホームコンサートがひらきたいな」という希望で、彼のベッドを囲むようにしたコンサートを季節ごとにひらくようになりました。音楽とはどんな状況にあろうと人を隔てないもので、家の中に閉ざされがちだった彼の暮らしは変化していきました。また、こうして彼の願いを叶えるのは自分にとっても社会に戻る大事なきっかけとなったわけです。

病気と闘う方と社会をつなげる役割を果たしていたのですね。

はい、そしてさらに動きは広がります。地元で開催される「白山一里野音楽祭」に詩人の谷川俊太郎さんや歌手の小室等さんらが来ると知り、「ここは通り道だから寄ってくださるといいね」と本気で手紙を書いたところ、お返事がきて、本当にいらしてくださったんです。その後、西尾さんは胆管がんも患ってしまいます。手術しないことを選択した彼は「もういちど、俊太郎さんを招いてコンサートができたら」と。そこでひらかれたクリスマスコンサートには市民1500人が詰めかけました。3か月後、彼はご自宅で亡くなりました。奥様と一緒に俊太郎さんのもとへご挨拶に伺うと「生と死の文化を伝えられる大切な会だから、続けていこう」と提案をいただきました。それが小松市で20年続いている「魂のいちばんおいしいところ」というコンサートの始まりです。


母のアンビューバッグを持ったことを話せないでいた21年間

文化を醸造し、人をつなげる場づくりに邁進できる、その前向きな力はどこから生まれているのでしょうか?

榊原:むしろわたしは自己否定の動機が多い人生だと思います。

21歳の時、母が頭蓋底腫瘍になりました。保健師として役場で働きながら母の入院する病院に泊まり込むという数ヶ月を過ごしていたある日、「母は今日トイレに行かなかったな」と思った瞬間に母の呼吸が止まりました。すぐに人工呼吸と心臓マッサージが施されるわけですが、その時、なぜかわたしがアンビューバッグ(人工呼吸器具)を持っていたのです。そして先生が「もういい?」という顔をして、こちらを見ました。わたしが頷くと、先生が手を止めた……その出来事がずっと心の水面下にありました。本当に深いところにあることは語れないものですね。

長い時を経て42歳の時、作家の柳田邦男さんが「人生の答えの出し方」という本に「ALSと仲間たち」という活動のことを聞き書きしてくださったことがありました。その中で「母のアンビューバッグをわたしが握っていました」という話をしたら、柳田さんが「その時代は、しょうがなかったよ」と言ってくださった。それでようやく、わたしも生きていていいんだ、と思えるようになったんです。

若い頃、壮絶な体験をなさっていたのですね。

榊原:20代は本棚全部生と死の本ばかりで埋められ、こどもが小さいから行けないけれど在宅ホスピス協会や緩和ケアなどに入会していました。それが思わぬところで功を奏し、柳田さんの書いた本に榊原千秋の名が載ったことで「この人は在宅ホスピス協会の会員さんだわ」と。同協会事務局の吉川敦子さんがわたしを見つけてくださったのです。彼女とのご縁は、宮崎にあるホームホスピス<かあさんの家>を立ち上げた市原美穂さんとの巡り合いにつながります。現地に伺って学んだ時、「ああ、わたしはこれがやりたいんだ」と心の底から思いました。

ただ当時は、NPOの立ち上げや、金沢大学での教員の仕事などがあり、この思いが形になるのは10年ほど後になります。


排便ケアの人材育成最前線から地域の居場所づくりへ身を移す

大学で教鞭をとっていたのはどんな経緯でしょうか?

榊原:1998年に小松市のJAが社会福祉法人を設立し、2000年に介護保険制度が開始するという怒涛の時代に同法人でケアマネージャーとして介護事業のスタートアップに関わりっていたのですが、地域の課題を現場から見つける保健師のアイデンティティを取り戻そうと40歳から金沢大学大学院修士課程にて学び、42歳で金沢大学の教員になりました。当時は排便に関してまだ世界的にもエビデンスがなかったため、常識を覆すために研究を開始し、介護老人保健施設の看護師と介護士を排便ケアリーダーとして育成しました。排便ケアリーダーが働く老健では、入居者の排便の質が良くなるという結果が出せましたが、大学教員の立場から現場を変えていくのは難しく、「まずは地元に居場所をつくり、小松をよくしていこう」と決心して53歳で大学をやめました。

ちょうどそのタイミングで、“趣味は榊原千秋”と言って憚らない地域の不動産屋さんが「ここ使わんか」と物件を差し出してくださったんです。そこで、2016年から暮らしの保健室とちひろ助産院を始め、<合同会社プラスぽぽぽ>と<コミュニティスペースややのいえ・訪問看護ステーションややのいえ>を立ち上げました。地域ケアの拠点づくりです。

なぜ“ややのいえ”なのでしょうか?

榊原:住所が末広町88番地だったからです。赤ちゃんのことを「ややこ」といいますよね。また小松の山間地ではお母さんを「やぁや」と呼ぶそうで、そういえば「パパ」でもある。そして地域の人達は“ややのいえ”のスタッフのことを “ややさん”と呼んでくれるので、その後立ち上げたホームホスピスの名前は“もうひとつの家ややさん”としました。

スタッフに「ややさんて、どういう人だろう?」と問いかけたところ、「最期まで本人の味方でいる人」と言ってくれました。そういう存在になれればと、ずっと思っています。

地域に望まれて立ち上がったような場所ですね。

榊原:そうかもしれません。また、個人的な介護体験も重なりました。義母が第一腰椎圧迫骨折をした際、<ややのいえ>で引き取って24時間看ていました。義母は認知症でしたが、生活の手伝いをよくしてくれて、わたしが夜、訪問看護に行く時は「あんたはうんこで食べてるんだからいかんなん」と言ってくれたりね(笑)。一緒に暮らしていたら彼女はとても元気になりましたが、わたしが入院した時にショートステイに入り、3日後にストレスで出血性大腸炎になってしまいました。その影響もあり、最期まで療養型病院で過ごすことになったという後悔があります。

彼女はすごい人でね。公民館で「そのまちサロン」という75歳未満の人たちが75歳以上の人たちを食べさせるという活動を立ち上げた人でした。90歳を越えてからは彼女もお友達もみんなデイサービスに行っていたんですが、木曜日だけ行く場所がなかったので「ことぶきカフェ」を始めた次第です。ここはみんなが元気になる場所でした。それが証明されたのは、コロナの時です。世の中の情勢でやむなく3か月閉めたところ、その間に何人ものカフェ利用者が具合を悪くしました。ことぶきカフェは、誰もがひとりの人として過ごし、自分自身を取り戻している場でした。その場が失われた影響から学ぶことは大きかったです。

そうした経験がホームホスピスの実現を後押ししたのでしょうか?

榊原:そうだと思います。在宅での介護が難しくなったら、ある日突然施設に入り、ひとりの人として生きられなくなる。その流れをどうにかしたいという思いがあるのです。ただ、ホームホスピスの立ち上げ前には多くの困難がありました。コロナ禍でホームホスピスを始められず、「ややのいえ」を改修するのに膨大なお金がかかると分かり、挫折しかけていました。そんな時、NPO法人ホームホスピスこまつの理事で明治大学教授だった園田真理子さんが日本財団の「もうひとつの家プロジェクト」の存在を教えてくださいました。ようやく実現できる!となったその後も困難は続き、2022年8月に小松地方を襲った豪雨で工事が遅れ、2022年9月23日にようやく<もう一つの家ややさん>をオープンできました。10月初めに1人目の入居者、12月に2人目が来て、少しずつ増えているところです。


乱れた部分をあるべき姿に戻し、人として出会う

入居者の方は、<ややさん>で暮らすようになりどんな変化がありますか?

榊原:10月にいらした方は、前立腺がんの既往と大腿骨骨折で入院中、4点柵で、つなぎ服を着せられ、オムツ5枚あてていました。ご本人にとっては最悪の状態ですよね。「オムツを外してしまう問題行動がある」とのことでしたが、尿意があれば、外したくなりますよね。そこでお通じと便性を整え、尿路感染が回復するよう整えたら、ぐっすり眠れて気持ちも穏やかになり、体重が43キロから57キロまで回復しました。さらにサービス担当者会議でも自分の意見ができるようになったんですよ。

混乱を極めてご家族もどうしたらいいかわからなくなって困っていたいた90代の男性も同様です。彼は前立腺肥大症で頻尿、便性も乱れていましたが、清潔にして排泄を整えると、睡眠がとれるようになり、怒りの感情が収まっていきました。

<ややさん>で排便や排尿の問題を解決することができるのはなぜでしょうか。

榊原:スタッフがみんなPOOマスター(排便ケアのプロ)なのです。99歳の女性は最初オムツの中でおしっこする方が楽だと言っていましたが、腸内環境を整えるといいうんちになり、おしっこも気持ちよくできるという感覚を思い出し、トイレに行けるようになりました。今では布パンツを履いています。「ぽっこり死なせてくれ。死なせてくれた方が腰や足の痛みがなくなって楽になる」と言っておられたのに、今では「家族に食事をつくってあげたいな」と言うのです。

死にたい、が、生きたい、に変わる力があるんですよね。

入居者の方々の言葉はまっすぐ心に届きますね。

榊原:“聞き書き”を学んだスタッフがいて、記録ノートの裏にその日聞いた話が書いてあります。それを読むと、それまでせん妄症状のある男性でしかなかった方の人生に触れて見方が変わり、人として出会えるのです。認知症の人でも語れるんですよ。

人として出会うために、<ややさん>が大事にしていることは何でしょうか?

関根:今年のお正月に<ややさん>に入りたいという方がいたのですが、お会いしにいったら、もう下顎呼吸がはじまっていました。ご自宅での最期の時間、ご家族から「何を大切にしてきた方なのか」という話をゆっくり伺い、人として出会う時間を過ごしました。最期にお着せしたい服をみんなで選び、亡くなった後にみんなで家族写真を撮りました。はじめましてから亡くなるまでのたった1時間半でも、かけがえのない時間が生まれるのです。

ホームホスピスに入居しなくても、「このまちにはホームホスピスという場所がある」ということが大事なのだろうと思います。その人たちの話を聞ける場所があることに意味があるのではないでしょうか。

これからホームホスピスを始めたい方に、伝えたいことはありますか?

関根:日本財団の「もうひとつの家プロジェクト」というチャンスを生かさない手はありません。また、介護保険内で事業を考えるのは限界がありますから、別の収入の手立てがあるといいと思います。ただ、場所やお金があることも大事ですが、何より必要なのは理念だと思っています。“ホームホスピス”は、目的ではなく手段です。そのサービスを通じて何をやりたいのかを明確にすることで、大変な現場であっても必ずスタッフやボランティアの方々が集まってきてくれます。大変な時に手を差し伸べてくれているのは過去に強い絆ができた活動仲間でしたし、日本財団はそうして20年間耕してきた地域活動を支援してくれました。理念を持って地域に長く関わる、という地道な方法がもっとも近道なのかもしれません。